「アララト山/トルコ」
2022年09月30日
アララト山は、トルコの東端にある標高5,137mの山であり成層火山である。主峰の東南にあたる標高3,896mの頂上を小アララト山と呼んでおり、それに対して標高5,137mの主峰は公式には大アララト山という。アルメニアとの国境から32km、イランとの国境から16kmに位置する。『旧約聖書』にでてくるノアの箱舟が大洪水の後、流れ着いたとされる山と目されて、12世紀以降にヨーロッパ人により命名された。現在のアララト山頂から見つかった古い時代の木の化石や、航空写真から見出だした方形の船の跡らしいものをノアの箱舟の痕跡だとし、ノアの箱舟伝説が実証されたと主張する人もいる。アララト山は古くからアルメニア人の多く居住してきた地域(大アルメニア)の中心にあたり、アルメニア民族のシンボルとされる。オスマン帝国がこの地域を支配した時代まではアララト山の麓にはクルド人やトルコ人と入り混じりながらも数百万人のアルメニア人が暮らしてきたが、オスマン帝国末期、特に第一次世界大戦中の強制移住によりトルコ領内からはほとんどアルメニア人はいなくなってしまった。このとき、相当の数のアルメニア人の人命が失われ、アルメニア人ジェノサイドとして国際的非難を浴びたが、トルコ政府はジェノサイドの事実を否認しており、長らく論争となっている。初登頂は1829年、ドイツ人とアルメニア人のグループによる。その後、1920年(大正9年)のセーヴル条約に基づき、旧ロシア帝国領側に住むアルメニア人がアララト山の麓まで領土に含めたアルメニア国家を独立させる運動に乗り出したが、旧オスマン帝国領側に獲得した領土はトルコ革命軍によって奪還されてしまい、ロシア側も赤軍の侵攻によってソビエト連邦に組み入れられた。これ以降、アララト山はトルコ領となるが、1991年(平成3年)のソ連解体によって独立したアルメニア共和国はこのトルコとソ連によって引かれた国境を承認していない。アルメニア・ソビエト社会主義共和国時代においてもアルメニア人のシンボルであることは変わらず、国章にアララト山が用いられていた。現在の、独立後のアルメニアの国章についても盾の中央にアララト山をあしらっており、アルメニア人虐殺とあいまって、領土要求を警戒するトルコとの間で水面下の対立が続いている。国際的な環境保護団体グリーンピースは、2007年(平成19年)6月現在、アララト山腹にノアの方舟の模型を建造中である。地球温暖化問題で、早急な対策が必要であるというメッセージを送るためという。