ウィル ヘルム・コンラッド・レントゲン
2022年07月07日
ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン(Wilhelm Conrad Röntgen)は、1845年生れのドイツの物理学者。1895年にX線を発見。この功績により、1901年、第1回ノーベル物理学賞を受賞。1845年にラインラント(プロイセン王国ライン州)のレンネップで生まれる。3歳の時、一家はオランダに移り住み、レントゲンはここで初等教育を受ける。しかし卒業目前の時期に教師にいたずらをした友人をかばったため、ギムナジウムに進学できなかった。結局、1862年から2年半オランダのユトレヒト工業学校で学んだ後、1865年にチューリッヒ工科大学に進学する。1868年に機械技師の免状を取得したが、チューリッヒ工科大学でルドルフ・クラウジウスの工業物理の講義を聞き、物理への関心を高める。クラウジウスの後任のアウグスト・クントに師事し、1869年に『種々の期待の熱的性質に関する研究』で博士号を取得。 1874年大学教授となる資格を取得、ストラスブール大学に赴任。同大学では主に物理定数(値が変化しない物理量のこと)の精密測定を行ない、気体や液体の圧縮率、旋光(直線偏光がある物質中を通過した際に回転する現象のこと)度などに関して15本の論文を発表する。。これらの業績が評価され、1879年にギーセン大学の物理学の正教授に就任。1888年、 ヴュルツブルク大学に招かれる。同年に発表した『均一電場内での誘電体の運動により生じる電気力学的な力』という論文ではマクスウェルの電磁理論を実験的に証明し、レントゲン電流と呼ばれる現象(変位電流)を発見する。1895年10月から放電管の実験を始めこれが翌月のX線の発見へと繋がる。当時、ハインリヒ・ヘルツやフィリップ・レーナルトらによって真空放電や陰極線の研究が進められており、陰極線は電子の流れだが、金属を透過することから当時の物理学では粒子の流れではなく、電磁波の一種と考えられていた。レントゲンもこれらの現象に興味を持ち、レーナルトに依頼して確実に動作するレーナルト管を譲り受ける。レーナルト管は管全体が弱い光を帯びるので、陰極線を見やすくするためにアルミニウム窓以外を黒い紙で覆っている。また、アルミ窓はないが似た構造のクルックス管(初期の実験用真空放電管。真空放電の実験に利用されていた。)からも陰極線のようなものが出ているかもしれないとレントゲンは考えた。1895年11月、ヴュルツブルク大学でクルックス管を用いて陰極線の研究をしていたレントゲンは、机の上の蛍光紙の上に暗い線が表れたのに気付く。この発光は光照射によって起こるが、クルックス管は黒い紙で覆われており、既知の光は遮蔽されている。状況的に作用の元は外部ではなく装置だとレントゲンは考え、管から2メートルまで離しても発光が起きることを確認する。これにより、目には見えないが光のようなものが装置から出ていることを発見、後年この発見の時何を考えたか質問されたレントゲンは、「考えはしなかった。ただ実験をした」と答えている。実験によって、以下のような性質が明らかになる。
① 1,000ページ以上の分厚い本やガラスを透過する
② 薄い金属箔を透過し、その厚みは金属の種類に依存する
③ 鉛には遮蔽される
④ 蛍光物質を発光させる
⑤ 熱を発しない
また、検出に蛍光板ではなく写真乾板を用いることで、鮮明な撮影が可能になった。光のようなものは電磁波であり、この電磁波は陰極線のように磁気を受けても曲がらないことからレントゲンは放射線の存在を確信し、数学の未知数を表す「X」を用いて仮の名前としてX線と命名する。7週間の昼夜を通じた実験の末、同年12月末には『新種の放射線について』という論文をヴュルツブルク物理医学会会長に送っている。さらに翌1896年1月には、妻の指に指輪をはめて撮影したものや金属ケース入りの方位磁針など、数枚のX線写真を論文に添付して著名な物理学者に送付する。X線写真という非常にわかりやすい結果を伴っていたこと、またそれまでの研究でレントゲンが物理学の世界で一定の名声を得ていたことから、発表は急速に受け入れられる。1月23日に地元のヴュルツブルクで講演会と実演を行なう。なお、レントゲンは発表を非常に嫌っていたため、これが唯一の講演会だったとされる。国外にも情報は速く伝わり、発見から3か月後の3月には旧制第一高等学校の教授・水野敏之丞によって日本の科学雑誌でも紹介された。1900年、レントゲンはミュンヘン大学に実験物理学の主任教授として赴任。ここの物理学教室の同僚がX線回析像の撮影を行なってX線が電磁波であることを初めて明らかにする。X線の正体はこれまで謎であったが、透過性の高いX線の発見はただちにX線写真として医学に応用され、この功績により1901年、最初のノーベル物理学賞が贈られている。レントゲンは科学の発展は万人に寄与すべきであると考え、X線に関し特許などによって個人的な経済的利益を得ようとは一切せず、第一次世界大戦後のドイツの破滅的インフレーションの中で癌のため1923年2月に逝去、享年78歳。ノーベル賞の賞金についても、ヴュルツブルク大学に全額を寄付している。